『私のもとに来なさい。休ませてあげよう』:マタイによる福音書11章28−30節

「すべて疲れた者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とキリストは呼びかけられる。果たすべき責任や義務を背負い、周囲の期待や結果を出すため労苦する日々。時にその重圧に耐えかね、疲れを癒すための処方を誤り、社会において取り返しのつかない負の軛(くびき)を背負う例も耳にする。聖書の時代、過酷な労働を強いられ、決して逃れられない関係の総称として「軛(くびき)」という言葉が用いられた。本来は荷物を運ぶために家畜の首に巻いて使用する木製の道具である。主イエスは「私の軛を負いなさい」と招く。当時、2頭の牛を1つの軛につけたのを「1軛の牛」(Ⅰサム117)と呼んだ。キリストの言われる「私の軛」とは、「主イエスと繋がる(共なる)軛」であろう。それはどこまでも自分のもとに来る者に寄り添い「一緒に歩もうとされる」主イエスの軛である。動けなくなると共に足を止め、倒れたなら共に伏す。常に共にあるのだ。それを拒み、反発すれば双方に痛みが伴う。主イエスは優しく続けて語られる。「私に学びなさい」と。「私の弟子となれ」と同義である。柔和で謙遜なお方が、弟子の抱えている重荷を共に負ってくださるのだ。弟子の足までも洗うへりくだったお方が、権威や暴力で強いるのではではなく、優しく愛をもって一緒に歩んでゆかれる、それが主イエスの軛である。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いのだ」と。あなたは一人で重荷を背負っているのではない。主イエスを通して、われらは本物の<安らぎ>に出会うのだ。(2019.12.1礼拝説教より)

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章28−30節