イザヤ書51章の背景には、イスラエル民族の苦難の歴史、恐れと苦痛を味わう経験がある。かつては繁栄を極め、将来的にも安泰と思えた状況が一変し、エルサレムの都は敵国に滅ぼされて陥落。もはや人の住むところとは呼べぬ荒れ果てた廃墟となった。祖国に住めなくなるばかりか、遠い異国の土地に連行されてしまう。しかし、そのような憂いの多い民に神は語りかけられ、恐れと苦痛を味わっている人々に慰めと回復の希望を告げられた。たとえ荒れ野という厳しい環境、周囲には喜びや楽しみの要素、憩いの場所が皆無のような状況であっても、神はそこを歓喜と感謝の歌声が響くところに回復することがお出来になるのだと。かつて神は、アブラハムとサラを顧みて慰め、イサク(笑い)をお与えになった。この出来事に目を注げ、と預言者は語るのだ(2節)。アブラハムは、ただ「神の約束の言葉を信じた」(創世記15:6)。▼第二イザヤ書では「慰め」が大きなテーマの一つだ。イエス・キリストのご生涯を題材として構成されてあるヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、「慰めよ、慰めよ」と告げるイザヤ書40章の言葉で始まり、救い主(メシア)到来の預言へと繋がる。クライマックスでは有名な「ハレルヤコーラス」が、信仰者にとっては実に神への賛美と感謝の歌声として響く。神は辛い状況下でいきなり「感謝」という高いハードルを与えるような方ではない。苦難を経た者にとって感謝の歌声は「慰め」から来るのではないだろうか。救いの岩として切り出されたメシアである主イエス。彼は私たちが経験する以上の苦痛、苦渋をお受けくださった。ゆえに、私たちがどんな苦痛の経験、たとえ孤独に思えるような厳しい状況に置かれようともメシアは寄り添い、枯渇した魂に、泉のような慰めと恵みを注がれる。2019年、実に様々な事があったが、イエス・キリストの慰めもまた豊かにある事を信じたい。来たるべき新しい年、主にある希望を抱きつつ迎えたいものである。2019.12.29