「死」の出来事は人と人を引き離す「別れ」であると同時に、どんなに遠く離れていても、生きている兄弟や家族、友人など故人と関係のある人たちを一つの場所(弔いの場)に呼び集める招集力を有している。どんなに多忙であろうと遠方であろうと、たとえ互いに顔を合わせることが困難になっている場合であっても、ある意味で強制力を持つ。われらは主の晩餐の度毎に集められる。そこでは「主の死」が告げ知らされる。それは主イエスの「死」という出来事が、あらゆる関係を和解につなぎ、救いにつなぎ、命につなぐ恵みを得させていくからである。「主の死」はわれらにとって贖罪としての意義を持ち、「主の死」が救いへの神との契約、主とひとつとされる関係性に繋げられるのである。主にあってひとつのからだとされることを覚え、われらは復活と主の御国を待ち望むのである。「マラナタ(主よ来たりませ )」2020.2.2(日)