外出できずにいるのはわれらだけではない。イエスの十字架の死後、弟子たちにも共通項がある。彼らはウィルスではないが、外に出ることで身の危険を覚えていたのだ。ユダヤ人たちを恐れ、復活したと伝えられるイエスに会うことにも不安であった。主を裏切って逃げて来た弟子たち。彼らは密集し、家には鍵をかけて密閉、密接の状態にあった。彼らの内には恐れと恥という名のクラスターが発生していた・・。そこへ、復活の主イエスが顕れて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げる。主イエスによる「平和」、それは単に争いのない状態にとどまらない。「平和」とはすべてのことが<正常な状態>にあることだ。平穏、無事、安心に過ごせる事、いのちが充足し、生きる意欲に満ちる事、人と人の距離が隔てられておらず、互いに責め合うことなく和合している状態を内包する。しかし何よりも復活の主イエスが与える平和は、<神との和解>である。「あなたがたに平和があるように」と復活の主イエスは何度も語られる。不安を払拭できず恐れの中に埋没している弟子たちにとって何と爽やかな風が吹いた事であろうか。出口の見えない息苦しい状況にあって、何と恵みに満ちた希望の光が差し込んだ事だろう。彼らは主を見て喜んだ。この平和は空風のように、吹いて素通りするような平和ではなく、試練や絶望、死を前にしても萎縮しないほどの揺るぎない平和である。それは自分で獲得するものではなく、主イエスによって与えられるものである。こう言う表現は相応しくないかも知れないが、この時期にあえて言うならば、われらは平和のクラスターなのである。主イエスの平和を広げる<群れ>とされているのだ。われらは復活の主イエスからこの平和をいただいて、この世に遣わされる。主の恵みを広めるため、喜びを分かち合うため、確かなる望みをもたらすために。2020.4.19