師弟関係というものは、弟子の方が志願するのではなかろうか。だがイエスの場合、みずから歩み寄って声をかけ、弟子へと招かれる。だとすればこの招きは恵みそのものである。われらがイエスのおられる場所を捜し求めるのではなく、イエスの方からわれらのいる場所を捜し求め、われらを見出し、そこで招かれるのだ。招く前にイエスが彼らを見つめておられた姿が印象的だ(16,19節)。招く者ひとり一人のあるがまま、至らぬ部分を含めた存在全体を見つめて受容するかのような深い眼差し。イエスはすべてを承知のうえで彼らと共に歩もうと招かれるのである。イエスの招きに応じるということは、弟子の側ではなく招く側に一切の備えがあるという恵みに気付かされる。弟子たちの前途には時にイエスの心を理解できず嘆かせ、期待に応えるどころか裏切ることもある。しかしイエスは食する暇も寝床の枕ももたず、ただひたすら人々にしもべのように仕え、招いた者をこの上なく愛し続け、十字架でご自身の命をささげる程にすべてを与えて歩まれた。すべては招く側のイエスが背負い、愛を注ぎ、忍耐を尽くして最後まで弟子として受けいれ、弟子と共に働かれるのである。弟子(マセーテース)とは、その主であるイエスの生き方、全存在に学ぶ者である。われらも主イエスと共に歩む者として招かれている。(2020.6.21)