人生を舟旅にたとえるなら、必ずしも望む方向へ進むとは限らない。風の影響で思い通りは進まず、時には暴風雨という逆境に見舞われる。そこで水浸しになりながら、心に侵入する心配や恐怖という水を外に掻き出す事に必死となり、「もう限界、このまま沈んでしまう」と危惧する事もあろう。だが、われらの舟には主イエスが共におられる。「わたしたちが滅んでも平気なのですか」(38節)と訴える弟子たちに、彼は「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われる。原文では「まだ<信頼>を持たないのか」という意味である。弟子たちは主を信用してはいたものの、まだ「信頼」に至ってはいない、という事であろうか。そこで彼が命じると暴風は止み、大きな凪が生じたと記されている(39節)。詩編には、人間に脅威をもたらす諸力としての荒海や暴風が<神>によって叱咤され、鎮められる描写(詩編77:17,89,10,104:6-7他)があるが、騒ぎ立つ波や風を鎮められる主イエスの姿が重なる。弟子たちは大きな恐れをもって、彼は何者なのかに心を向ける。新約記者らは「主を信頼する者は、決して失望する事がない」(ローマ10:11他)と証言するが、われらはどうであろう。情報の嵐のような時代にあっては虚偽の情報も飛び交う。そこで常に変わらず、真に信頼できる言葉に出会えるであろうか。たとえ人生の海の嵐という波に呑まれそうになっても、われらは騒ぎ立つ心を大きな凪にされる主イエスの御言葉、その権威のもとで救いにあずかり、癒しを受け、慰めを与えられ、望みを繋ぎつつ、嵐の中でも主イエスと共にある事の平安のうちを歩む者として召されている。(2020.10.25)