クリストファーという大男は、世界で最も偉大な者に仕える夢があった。不敗を誇る一国の王がいるとわかると、彼は出向いて仕えるようになる。だが、無敵と思えた王は悪魔の存在を恐れる弱点があった。そこで彼は最強の王が恐れるという悪魔に仕えるようになる。しかし悪魔は十字架を嫌い、キリストを恐れるのであった。より偉大な強者を求めて彼はキリストを捜し求める旅に出る。川を渡る人々を肩に担いで運ぶ渡し守りの仕事をするようになった彼は、ある日一人の子どもに出会う。軽いはずの子どもを運ぶうちにクリストファーはその重みに耐えかね沈みそうになる。漸く川岸にたどり着いた時、彼は背負っていた幼子がキリストだったと知る・・・。この絵本の話は「クリストファー(キリストを運ぶ者の意)」という半伝説的な3世紀頃の殉教者に由来するようである。大男が知った幼子の重みは、人々の罪、苦しみや悲しみを背負うキリストの十字架の重量なのであろう。一方で大男が担いきれない十字架を背負う事で、自分自身が川に流されず目的地にたどり着くメッセージも含まれているように思う。今日は「子ども祝福式」である。授かった一人の子どもの命、それは小さなキリストを背負うに等しく、全世界を担うほど責任と重みがある。だが同時に、その重みを知る者こそが使命を果たせる者となっていく。「偉さ、偉大さ」が問われる中、主イエスは幼子を示された。それは偉大さとは対極にある無力さの象徴である。われらは自分の力に過信する時には弱さの中に沈むのであり、自らの至らなさを自覚し、無力に思える時には、愛なる神に背負われている事を知る。その時、われらは「弱い時こそ強い」(Ⅱコリ9:12)という逆説的な福音に出会い、恵みと救いを享受するのだ。(2020.11.8子ども祝福式)