自分が真理だと確信していた事が、根底から崩れてしまう事がある。これで自分は救われる、と何の疑いもなかった信心が、実は真逆の道を辿っていたという事が起り得る。使徒パウロはそれに気付かされた人物ではなかろうか。彼は回心以前、聖書(律法)の知識や、神に仕える宗教的熱心さにおいて自らの確信に何の疑いもなかった。だが、その知識や敬虔は神の意志とは真逆の方向に突き進んでいたのだ。彼は教会を荒らし、キリスト者の迫害に熱心なのであった。その途上、彼は突然「光」に照らされて視力を失い、他人の手を借りなければ歩く事すらできない闇の中に置かれる。第二コリント3章から4章にかけて「光」「輝き」「栄光」という言葉が繰り返し登場するが、パウロは弱さという闇の中で「光」に照らされ、イエス・キリストが何者であるかを知るに至る。以降、パウロが徹底的に伝えた救い主は、十字架につけられたままのキリストであった。キリストの奇跡や力あるわざではなく、恥と弱さ、愚の骨頂に見える十字架の姿だ。自分の誇りや力の強さ、偉大さとは真逆にある弱さである。だが、ここにこそ神の栄光が輝き、救いの光がある。浅井力也というハワイの画家。彼は脳性麻痺というハンディーの姿のままで輝きがあらわれている。クリスチャンである母親の愛と神の愛に照らされ、いまも素晴らしい作品を生み出している。「闇から光が輝き出でよ」と命じられた神(6節)は、光をもって闇を照らす創造主であり、混沌から善きものを生じさせるお方である。(2020.12.6)