「祈り」は呼吸に似ている。神の意志(息)を「聴く(吸う)」側面と、自分の意志を「願う(吐く)」という両義性を持つ。マザーテレサは「祈りとは、自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くこと」と言うが、前者に強調点があるように思う。今日の箇所では後者を併せ持つ。願いが拒否されているかのような神の意志を受けつつも、諦めずに全集中で粘り強く求め続ける祈りが状況を変えたのだ。ここでは「御心のままに」と黙従の信仰にのみ価値を見出す高尚な姿勢に疑問を呈するだけではなく、神の意向に接しても「否」と対話できる余地さえ与えられている。聖書には至る所に同様な事例が見受けられる(アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエスのたとえ等)。神はご自身の意向を示しつつも、そこで深くわれらの意志との対話を望んでおられる、ここに神の御心が聴こえて来ないだろうか。とすれば何とわれらは容易に願いを取り下げることが多いのだろう。全てを集中させて神に聴き、また全力で神に求める。一方通行では息切れするだろう。祈りは神との霊的呼吸であり絶えざる対話である。(2021.2.14)