「男」を主語として離縁の可否を訪ねる場面(2節)。「女」の人権は無視されている。だが、イエスは当時の男女不平等社会において、「女」側の選択肢をあえて提示している(12節)。この視点を看過すべきではない。イエスにおいては当初から男だから、女だからという関わり方ではなく、それぞれ個別に応じられるお方のように思う。その意味で、性的差別のないジェンダーレス的?な面がある。しかし、彼自身が所謂該当者か否かという議論はここでは避けたい。聖書には男子として誕生したとある。もし、現代でいうL.G.B.T ・・・A.I.Qと言われる多様な性的指向、性自認者と出会ったならば、イエスはどう接されるであろうか?男と女という性の枠組みのゆえに苦しみ、声を上げることも出来ずに心傷んでいる方を置き去りにすることは、神の意志だろうか?「どなたでもお越しください」と教会は招く。性差別は重大な人権問題だ。日本バプテスト連盟も「性差別問題委員会」があり、われらが気付くべきこと、少数派であるがゆえに声を上げることができず、苦しみを抱えておられる人のその心の痛みというものを分かり合おうと働きかけがなされている。小さくされている者の解放を目指すのはイエス・キリストの福音の業である。イエスにあっては差別なく、すべての人を生きる居場所へと招く。もはや男も女もギリシア人もユダヤ人の区別もない。キリストにおいて一つに結ばれている(ガラテヤ3:28)。あなたも私もキリスト・イエスにおいて、ありのまま受け入れられているのだ。われらはそのような無限の包容力のなかではじめて、自分が愛されていることを知る。性別の良し悪しの問題ではない。神が主イエスにおいて結び合わせておられる愛から引き離されるものは何もない。(2021.5.9)