『3人目の友』ヨハネ黙示録14章13節 (召天者記念礼拝2021.10.17)

ある男が突然、王様から召集された。男は不安になり3人の親友に一緒に来てくれと懇願する。一番の親友は日頃から大事にしており頼りになる存在。だが、いとも簡単に「NO」と断るのであった。もう一人の親友に頼むと、城の門までは一緒に行けるがそれ以上は無理、と言う。3番目の親友は普段は目立たず忘れている事もあったが、何処までも私が一緒にいるから王様の前でも心配いらない、と告げるのであった・・。これはユダヤのたとえ話。王様は「神」。呼ばれたのは「死」を意味している。一番の親友は「お金」。死後は意味を失う。二番目は「家族」。火葬場までは一緒に行けるが、その先は引き離される。3番目の友は「善行」。「行い」は、死後もついて行くという・・・。私たちは先に召された者の在りし日を偲ぶ時に想い起すのは、故人の生前における命の営みである。「あの人が生きていたらきっと、こうするに違いない・・」と、故人がその道にあって選び続けた行動の一貫性において地上に残された者の心に甦るのだ。かつて共に歩んだ中で与えられた愛の行為、それはいつまでも心に残される・・。われらにとって3番目の友は、主イエス・キリストである。彼はわれらを「友」と呼び(ヨハネ15:13-15)、友のために命を捨てるほどの愛のわざを十字架において与えられた。善いわざとは、主イエス・キリスト。彼と共に歩むことである。このお方に結ばれてわれらは生きる。主と共に葬られ、主と共に復活の命を生きるのだ。われらもいつの日かお呼びがかかる。だが、このお方がいつまでも、どこまでも一緒にいてくださるのである。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」黙示録1413節(2021.10.17(日))