2022年度主題「希望によって歩む」

2023WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝戦は、開催地との時差によりライブ中継がリピート放映された。再放送の場合、結果は既に判明しているので悠々と観戦できる。試合は後半に至るまで劣勢であったが、誰も途中で「もうダメだ」と諦めて観戦を中断することなく視聴を続ける。なぜなら、その先の展開では逆転して日本が優勝し、共に歓喜する結末になると知っているからだ。人生の途上で失敗や挫折など望みが叶わなかったという失意を経験した場合、もしそれでも希望を抱き続けていけるとすれば、今は辛く苦しくても、その先の結末にはきっと幸いが待ち受けている、と自分の未来への価値を見出す時だ。「希望の神学」のJ.モルトマンは「人間は持続する希望へと召されている」と語る。われらの希望は、生活や社会的な成功に基礎を置いているのではなく、神の呼びかけと命令にその堅固な土台があるのだ。神のご計画によって召された者たちのためには、一切が良い方向へと前進するために働く(ローマ8:28)。われらの道の結末には、永遠にその価値を失わない慰めと歓喜をもたらす救いが待ち受けている。神はわれらに希望を命じておられ、希望の源である神ご自身を待望するよう招き続ける。そして、希望はわれらを欺かない。(2023.3.26)

新会堂15周年を迎えた。ヘルマン・ホイヴェルズ宣教師が友人から贈られた「最上のわざ」という詩を分かち合いたい。『この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう・・。若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること・・。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後の磨きをかける。まことのふるさとへ行くために・・。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事・・。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ・・。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために・・。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と・・。』(「心だけは永遠」より)たとえ何もできなくなっても最後まで「祈り」ができる。祈りは最上のわざであり、最高の事業である。神の家は「祈りの家」と呼ばれる(ルカ19:46)。われらの主イエス・キリストを誇りとしている限り(ヘブル3:6)、教会は常に確信と希望に満ちた拠り所なのである。(2023.3.19)

「チェンソーマン」という人気漫画。デビルハンターの主人公は、倒した悪魔を食べることによって、その存在自体を消す能力を手にする。第2次世界大戦の悪魔を食べた後、人々は第2次世界大戦自体を認識できなくなる・・。現実の世界でもチェンソーマンに食べられてしまったのだろうか?まるで過去の戦争による惨禍が存在しないかのようだ・・。巨大な船の乗客にとっては、大きな旋回があっても進路変更に気付き辛い。世界はどこに向かうのか?ルカ福音書によれば、悪魔はこの世の権力や富を仕切っており、下界の主として人間を罪や過ちへと誘惑する存在である(ルカ4:6)。主イエスは誘惑を退け、罪からの救いと平和の道を示された。この世界でどんなに悪しき力が跋扈しているように思えても、われらは悪霊ではなく、聖霊という神の愛と平和の支配下にある。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)われらの国籍は天にある。聖霊はわれらを導き、神の国を受け継ぐ保証として希望へと向かせる。(2023.3.12)

首都圏で行われた「脱原発」のパレード。「3・11を忘れない」というプラカードを見た若者が「311って何?」と話していたという・・・。2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災によって引き起こされた人災「東京電力・福島第一原発事故」から12年を数えるが、わが国は未だ原子力緊急事態宣言下にあることを忘れてはならない。放射能汚染による避難指示で故郷や住まいを奪われた人たち。「原発さえなければ」との遺言を残して亡くなった相馬市の酪農家の無念さや悲しみ。地震の度に今も原発を案ずる人たちがいることを忘れてはならない。われらの安全基準は100%ではない。唯一、確かなものがあるとすればそれは神の言葉であると信じる。「神はわれらの避けどころ。苦難のとき必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46:2) 12年前の震災時は会堂が避難所となった南光台教会。Sさんは当時を振り返る。『(あの時は)対話によって互いに辛さや苦しさを共感し分かち合う場となった。それは神が祈りを聞いてくださっており、痛みを分かち合ってくださっているようで「主が共にいてくださる」ことを思った』〔「光あれ〜混沌の地を生かされて〜東日本大震災から10年を数えての証言」(日本バプテスト連盟現地支援委員会)より〕「乏しい人は永遠に忘れられることはなく、貧しい人の希望は決して失われない(詩編9:19)」(2023.3.5)

経済新聞に「次世代を考えない政治の劣化」という見出しがあった(22.12.31付)。いつの時代でも政治家の質が問われるが、わが国の人権を守るため恒久的平和を熟考し、大正デモクラシーを戦後民主主義につなげた国会議員がいた。平和憲法成立のため多大な貢献をした鈴木義男(1884-1963)である。東北学院(キリスト教主義学校)出身の彼は、東北帝国大学の教授になるが政府批判をした事で結果的に教壇を追われる。弁護士となってからは一貫して社会的弱者の側に立って活躍するが、人権を守るのは政治を変えるしかないと政治家となり、大臣として憲法の審議に携わる。当初GHQや政府の草案にもなかった「平和」の文言が加えられ、国民主権を加えたのは彼の功績だ。「全国民は今日以降、主権者となったのだという自覚をもたねばならない。しかしその思想は盲目であってはならないのであるから、よい政治の主人公たるべく、大いに勉強し修養しなければならない。よい政治は自覚の高い国民によってのみ樹立されるのである。」(新憲法読本より)召される直前、「わたしはキリスト教の精神を子どもの時から身につけてきたために大分損をしたよ」と言って心から嬉しそうに微笑んだ、という。何が正しいかは神のみが知り、歴史が裁く。愛と義の政治家として彼は損ばかりした。けれども、そこには後悔ではなく、満足があり、喜びさえ見て取れる。次世代からさらにその先まで、私益ではなく、全世界に公益をもたらす平和をつくりだした生涯。神のしもべとして生きた偉大な先達がいたことへの敬意が尽きない。(2023.2.26(日)

たった一本の歯が痛んでもなぜか全体が苦しい。ほんの少しの甘みでも全身が元気になることがある。同じひとつの体だからだ。私たちの体は無数の細胞や器官が複雑かつ絶妙に機能しており、密接に補い合っている。どんな小さな器官であっても不必要なものはない。パウロは多様性に富む人たちで構成されているコリントの教会に向けてキリストにある一致を呼びかけ、教会は「キリストの体」であり、ひとり一人はその部分であると宣言する。「足が自分は手でないから、耳が自分は目ではないから」と、周囲を見渡して自分と比較し、劣等感を抱いているたとえは、自分は役に立たない、あるいは重要ではないと自己卑下する人たちの存在を示唆している。パウロはそれぞれ働きや役割が異なることをあげ、全体の「からだ」に意識を向けさせる。それは、足が手に対してどんなに劣等感を抱いても、体の一部でなくなることはあり得ない。同様に、耳が目を羨んだからといって、体から離れることにはならない、ということだ。それだけ一人ひとりが繋がっている事は重要というのだ。身分や価値観の違い、男女差別もあった集まりで、若年者や高齢者などあらゆる人々が集う只中で、一人ひとりはキリストの体であるという言葉は、すべての劣等感や差別を打ち壊す福音の宣言であり、この世のコミュニティーとの決定的な違いである。それは共に苦しみ、共に喜ぶ者として、ひとつの体を生きる神の国への招きなのである。(2023.2.19)

主イエスは、しっかりと顔をあげエルサレムへと進んで行かれる(51節)。一行は旅の途中「サマリア」の村に入ったが、村人はイエスを歓迎しない。歴史的にはユダヤ人とサマリア人との間には民族的に対立があったようだ。「村」は広辞苑によれば「群」と同源である。一対一であれば問題なく対話できるのに、群衆になると人の態度は変わったりする。「群衆心理」の著者ル・ボンによれば、群衆は未熟な心理に陥やすく、わかり易い「断言」になびいてしまうという。この村では「エルサレムへ行く者は敵」という単純なフレーズだけで恨みを募らせ、拒否する思考が浮遊しているようだ。しかし、それは弟子たちも同類。彼らは自分たちが何か特別な存在であるかのように威張りたがる「群衆」でしかなく、相手に天罰を与えて呪うような差別感情に身を任せている。主イエスは振り向いて彼らを戒められる。主イエスはエルサレムを目指し、村から村へとそこで出会う一人ひとりと対話をされる。主イエスが目指しておられるエルサレム。そこは十字架への道である。それは群衆が歓迎しない道だ。罪人を懲らしめずに赦すイエスを人々は歓迎しない。抑止力や剣を取らず、敵と戦わないイエスを群衆は歓迎しない・・。しかし、群衆が歓迎しない道にこそ、われらを罪から救う道があったのだ。エルサレムでの主イエスの十字架と復活により、差別意識や民族同士の争いではなく、和解と平和の道が全世界へと伝えられたのだ。(2023.2.19)

昨年から次々と自民党と旧統一教会との関係が明らかにされた。政権維持のためには動員力のある宗教団体との関係は無視できないのだろうが、芸能人や各業界人が、反社会的な団体と関係があれば即、失脚する。しかし、該当議員は誰一人責任をとらず、対話も辞任もしないままミサイル購入や保有のための増税を決めていく。日本はかつて時の政権が神話に基づく国家支配を掲げ、天皇を「現人神」と告白することで侵略戦争を引き起こした。われらは言論が規制され、生き方や宗教や強制され、一個人の命よりも国家や組織が大事とされて、多くの命が失われた歴史の文脈を生かされている。バプテスト教会は、誰からも強制されることなく、主体的に自ら選び取ることの大切さを訴えて来た教会である。「信教の自由」「政教分離」の原則は先達から受け継いだ嗣業だ。一人の声は小さくとも、連帯するなら大きな力となるはず。いのちと平和をもたらす主イエスを告白し、戦争ではなく平和の準備に寄与したい。(2023.2.5)

ひとり一人にナンバーが割り当てられ、個人情報が番号に集約されてしまう時代。管理する側で重要となるのは、個人名にヒモ付けされる年齢や電話番号、口座など数字の情報であって、少なくとも一人ひとりの「個性」とか「人格」の情報ではない。人の創造主である神は、ひとり一人その「名」を呼ばれるお方である。人を「モノ」扱いする関係では相手の「名」は呼ばれなくなり、「誰か」にとって都合のよい「モノ(道具)」となり得る。しかし神は、その人自身の尊厳を大切にして信頼関係を結ばれる。全体や組織のためではなく、愛するがゆえに、ひとり一人、その名を呼ばれ、礼拝へと導かれる。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10:3-4)主イエスは良き羊飼い(ヨハネ10:11)であり、羊のために命を与えるほど、一人ひとりを愛される。このお方の声を今日も聞き分けて歩もう。「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43:1)

金銀を求める生まれつき足の不自由な物乞いに、「ないものはない」と告げるペトロ。しかし、「あるものをあげよう」と差し出されたのは主イエスの「名」であった。その名によってこの人は自らの足で立ち、歩くようになる(使徒3:1-10)。彼にとって真に必要なものが与えられたのだ。「ないものはない」。「無い」のでは仕方ない。という諦めを促す否定の言葉も、「無い」もの「否定」と見れば、「すべてある」の意味になる。「偉大なことを成すため強さを神に求めたが、謙遜を学ぶよう弱さを授かった。健康を求めたのに、より良きことをするよう病気を授かった。幸せになるよう富を求めたが、知恵を使うよう貧困を授かった・・・求めたものは何一つ与えられなかったが、祈りはすべて聞き届けられた。わたしは誰よりも豊かに祝福されたのだ」(病者の祈り:作者不詳)この詩では、望んだものが与えられていないように思える。しかし、神に求めた一切のものを得ていた、との気付きがある。祈りの本質は、主の御名を呼ぶ事。かつて「わたしは在る」とその御名を告げた神は、常に共におられたお方であり、昨日も今日も、未来にも変わらず共におられる(存在する)お方である。そしてイエスの名は「主は救い」という意味である。「主を呼び求める者は皆、救われる」という約束は今もこれからも永遠に、真実であり続ける。(2023.1.22)

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