『十字架で死なれた主イエス』マルコによる福音書15章33—41節

「痛まず、苦しまず、死なない」そのような人格との共存は難しい。なぜなら人間は生きる限り「やがて死ぬ」という意識が心の奥に留まっているからだ。もしも苦しむ事もなく死なない人がいたなら、価値観も人生の悲哀も共有できない事だろう。今や人間にとって欠かせないパートナーとなったAI(人工知能)だが、AIは死なない。どんなに正確で緻密な技能と処理能力を有し、賢明な判断を得られる相談相手として進歩しても、常にバージョンアップを繰り返し、死ぬことのない相手と「共に」生きたところで、決して救いにはならない。主イエスは「死なれた者」としてわれらと接点を持ち続け、連帯される。主イエスによってご自身を示された神は、痛みや死をすり抜けて自らは苦しまず、人の痛みに無関心なお方ではない。ましてや苦しむ者を天罰だとして見下すお方でもない。主イエスは「十字架刑」という最も酷い死をもって絶望の中で息を引き取られた。苦しむ側、見捨てられたと絶叫する側にまで降りて来られたのだ。主イエスは、これ以上ない呪いと不幸の深淵に放り出された事によってどんな人間の苦しみ、絶望、死をも共にされる。主イエスは誰も孤独にされない。苦しむ者と「同じ」になる事で苦しむ者と出会い、「共存」されるお方なのである。(2022/2/6)

2022/2/6(日)礼拝講壇生花 by YOSHIKO