わが国では祈願は神社。結婚式はチャペル。葬儀は仏教という宗教観を否めない。宗教を尋ねられると「家は仏教」と答えがちな日本人。迂闊に「無宗教」と答えると、道徳観念がなく信用できない人物とみなされる場合がある。特に欧米では「宗教」は相手が何を規範と考えて行動しているかを知る手掛かりでもある。昨今宗教の問題が連日取り沙汰されているが、行政も学校も宗教問題となると難儀するのが実情だ。「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)とあるが、宗教とは本来、真理や真実に基づいて束縛や奴隷状態からの解放を得させるはずではなかろうか。「宗教」の訳語は「re-ligion」。多義的であるものの「再び結ぶ」と理解される。もし仲違いした相手と再び繋がるならばそれは宗教的と言えよう。われらは独りではなく誰かとの関係の中で生きている。宗教は誰かを悪者と決めつけて敵視し、善と悪の世界に二分して関係を絶つか、あるいは自分の側につけ、同類だけで結び合うのではないはずだ。主イエスは敵とも結び合わせる関係へとわれらを導く。互いに結び直し、繋がり続ける道が信仰であり、ここに真の自由がある。その自由な繋がり、結び付きをキリスト教は「愛」と呼び、すべてを完成させる絆と信じるのだ。何より神がわれらを愛し、神との関係を和解へと結び合わされたからである。(2022.10.23)
2022/10/23(日)礼拝講壇生花 By ISHIMARU