災害や不幸は悪人に狙いを定めて起きているわけではなく、善良な人物にも無秩序(ランダム)に訪れる。神は混沌とした世界に手を伸べられ、光と闇をわけられた。光を「よし」とし、闇を「悪」とされたのではない。闇を「夜」と呼ばれた。創世記にある「創造(バーラー)」とは、無秩序な状態を整理し、秩序を与える意味がある。もし、幸いのみ享受するのが神信仰なら、今不幸にある者は見捨てられし事実に煩悶するしかない。十字架のキリスト、闇の絶叫。そこには神を信じつつ神に見捨てられ、なお神に叫ぶという矛盾、無信仰の信仰をみる。人間だけがこの矛盾性を生きることができる霊的存在であり、そこに宗教的意識と神信仰が生まれる根源がある。孤独の闇に放り出されても、「あなたは独りではない」と耳元で小さくとも確かに響く声がある。「神も仏もあるか!」と絶望の淵にあっても、その下から「だいじょうぶ」と力強い掛け声がする。見失いそうでもどこかで輝く微かな「光」が、「夜明けが来る、まだ希望がある」と自分に語りかけている。そう信じて生きること。換言すれば、それが神を信じるということなのである。人間的な尺度を超え、原因不明の偶発的な闇や苦悩さえも肯定し、ありのままでその存在意義を深め、人生の混沌を整理し、秩序付けられる神が共におられる。そこに新たな恵みの発見があり、幸いと確かな希望が生まれるのだ。(2023.1.8)