「私はいる、というお方」2023.10.8(日)出エジプト記3章12-15節

神は存在するのか?」という問い。質問者の「神」はどのような神かを問わずにはいられない。わが国は神道による「八百万の神」という古来の神観があり、森羅万象に「カミ」が宿るというアミニズムの影響下にあるからだ。聖書が示す神は、多神教に対して唯一神と呼ばれるが、「一」という数字より、英語でいう「オールマイティー」が近いかもしれない。それは万物の創造的主にして、世にあるすべての存在に対して責任を担われるお方、存在の根拠を他に転嫁しない全能者である。本日の記事では当時エジプトの奴隷として人権や自由を奪われ、うめき苦しんでいた人々の叫びを聞き、救い出そうとされる神の人格的な意志が伝えられる。この神は現象でもなく、高みの見物者でもない。人々の苦しみと痛みを知り、その叫びを聞いて働く神である。この神の名を聞かれたら何と答えるべきか?と問うモーセに神が答えられる。聖書協会共同訳では「私はいる、という者である」と訳されており、「神はわれらと共にいます」ということが強調され新鮮に響いてくる。聖書は、神と人間との歩みにおける出会いの物語だ。そのお方は、「私は(あなたと共に)いる」という名でご自身を伝えられる。いまだかつて神を見たものはいない。しかし、神の言葉である主イエス・キリストによってわれらは神というお方を知る。このお方は神の身分でありながら低みへと降られ、人々に仕えるしもべのように歩まれた。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くお方。その名は「インマヌエル(神は我らと共にいる)と呼ばれる。死より復活し、主は今も生きて語られる「恐れるな。私が共にいる」と。(2023.10.8)


2023.10.8(日)礼拝講壇生花 by Yoshiko