『主イエス・キリストに倣って』:ヘブライの信徒への手紙12章1-11節

D.ボンヘッファーによれば、キリストに従うという神への服従がない信仰は「billige Gnade:安っぽい恵み」であるという。それは、「悔い改めのない赦しを説く事であり、弟子なしの恵み、十字架のない恵み、キリスト不在の恵みであって教会の宿命的な敵なのだ」と。主イエスのもとには愛と安らぎが約束されている。しかしそれで完結なら安価な恵みでしかなく、主イエスに倣い、彼と共にくびきを負う歩みの中に高価な恵みがある。人は誰でも苦しみや辛い事を避けたいと願う。それが人間の本性だからだ。しかし、神の子とされた者は「聖霊」にあずかりつつ、罪や安易な道に違和感を覚えていく。神は愛する者をご自身の本性にあずからせる目的で躾(しつけ)をされる。ヘブライの著者は、それは「実の子」として認められている証しだと箴言3:1を引用して述べる。かくして苦難は、人生における最大の恵みの導き手となり得る。人は結局、苦労した事しか身に付かない。躾を享受する時は喜ばしい事ではなく、苦しみの事柄と思われるが、後には義に基づく平和の実を結ばせる。キリストを知るために経験する苦難は人生を無意味なものにしない。目の前にある喜びを捨て、十字架の道の苦難を耐え忍ばれたキリストだけを知り,このお方から目を離さない生き方にこそ大いなる恵みが存在する。そこでは一切が無駄にならず「益」とされていく。「信仰の導き手であり完成者であるイエスに目を据えたままでいなさい」(Heb12:2)。「われに従え」と主イエスは今日も招く。(2024.1.21(日)