『ナザレでの宣言』 :ルカによる福音書4章14−30節

ルカ福音書によれば、主イエスの宣教活動の第一声は故郷ナザレでの宣言だ。ある安息日、彼が朗読したのはイザヤ書(61:1-2)であったが、主イエスは本来読まれるべき言葉を省いて「この言葉が実現した」と宣言される。読まなかったのは「報復(復讐)」の個所だった。歴史的にもローマ軍による武力鎮圧が繰り返されていたナザレを含むガリラヤの人たち(前57年のガビニウスの大虐殺、前4年のセフォリスの破壊等)。敵の暴力によって身も心も踏み躙られて来た彼らは、いつか「神が復讐される日が来る」と、敵に対する憎しみと復讐心をもって聖書を読んでいた可能性が高い。しかし主イエスは、ご自身が神に遣わされた救い主として「報復」を語らないことで、自由と解放が実現したと宣言されたのだ。すなわち「赦し」が神の意志なのであり、カリラヤ人たちが長い間機会を伺ってきた復讐を放棄する平和が宣言された、とも読めるのだ。だからその後、彼は崖から突き落とされそうになる。当然かもしれない。今も世界では憎しみや復讐心にかられ差別や報復戦争をやめることができない。「赦し」など到底受け入れられず、そんな高尚なお花畑思想など退けたくなるのはナザレの人たちだけではない。だが、「赦し」こそがキリストの生涯を貫いた福音であった。彼は十字架上で敵のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈り続けたお方だ。主イエスは敵をも赦し、だれをも分け隔てなく愛する公生涯を貫かれた。彼こそ憎しみに駆られて幸いを見失い、不自由の中の檻に閉じ込められてしまう人々を解放し、囚われの場所から、広く開けたところに送り出す救い主である。憎悪、復讐心それが自分ではどうすることもできないからこそ、主イエスが負の連鎖を取り去ってくださったのだ。彼の宣言によって憎しみや復讐の文字が取り去られ、愛と平和が心に留められていく。(2024.7.28)