主イエスは祈るために山に行かれ、祈りのうちにご自身の使命を見出された。祈ってから弟子たちを選ばれ、それ以降、弱さと欠けのある多様な面々の弟子たちに出会い、彼らをありのまま受けいれて共に歩み、最後まで愛し抜かれた。祈りが手段になるところでは、人間の願望達成が目的と成り下がる。祈りは手段ではなく目的である。その主要な目的は、人間を神に接近させることである。人間は不完全であるがゆえに、絶えず神に心を向けて祈るのでなければ、決して普遍的な正しさを維持することはできない。神を求めて祈り、その招きと御心に応じることによってのみ、われらはより高い次元で、神の協力者として立ち上がらされる。われらは祈りにおいて神を思索するのではなく、神を抽出する。われらは不完全さを常に知らされなければ傲慢となって感謝や恵みを見失ってしまう。しかしそこで神を求め、このお方を知ることによって、最後までわれらを愛し共に歩まれる神とその愛に出会うのである。神を知ることは人生の目的に通じているのだ。(2024.11.17)