平地に立ち、弟子たちを「見上げて」語る主イエス。「上から目線」とは対照的な姿勢で語りかけるその姿は、ルカ福音書が伝える実に謙遜な一面である。価値の低いものを見る視線は下だが、価値を認める対象への眼差しは、往々にして下から見上げる目線ではないだろうか。主イエスは神の身分でありながら、へりくだって人々に仕える僕(しもべ)として地上を歩まれ、「幸いと不幸」を語られる。飢えを知る人は、食事する幸いを知っている。病む人は、健康のありがたみを知っている。愛する者と死別した人は、故人と一緒に過ごした幸いな日々を思い起こす。不幸を知らなければ、幸いは語れないのかもしれない。その意味で主イエスは、常に人間の苦しみや悲しみ、生きる悩みを知っておられた。このお方は、嘆きや悲しみで泣くしかない人たち、貧しい人たちといつも一緒におられた。正しいことをしているのに、憎まれる者の側に立たれた。主イエスがそのような人たちの立場におられ、その人たちの価値を高め、命まで惜しまず与えられたからこそ、私たちは主イエスと共に歩む道に幸いを見出すことができるのではないか。それは、物事が上手くいかないとか、苦しいとか、調子がわるいとかで引っ掛かる必要性はない、ということだ。そのようなことは当たり前のこととして、主イエスと共にあることを喜び、このお方で心を満たす日々にこそ、主イエスの語られる真の幸いの内実が見えてくるはずである。そこに人生の意味との出会いも備えられているのではないか。(2024.12.1)